地名、単語などイタリア語表記しています。
イタリア シンポジウム記 2000.6.27 - 2000.7.11 Simposio in Sardegna 27.06.2000 - 11.07.2000
私が行ったSardegna(サルディーニャ)島は、某有名旅行書イタリア編にも 文字だけで1ページしかかいてないくらい情報がない所でした。 しかもそこに行く事を紹介してくれたフランス人の彫刻家の人は、「とにかくSardegna島のOLBIAという所に行きなさい、それしか私も知らない。」としか言ってくれず、(その他に色々と心配はしてくれましたが。) Bretagneから帰ってきて4日程で飛行機の手配と最低限の道具をそろえました。 |
今回のシンポジウムは久しぶりの木彫。なんと大学以来6年半ぶりです。木彫をこちらでやるとは思っていなかったので、道具は全てパリでそろえました。 ひとくちに木といっても様々な種類があります。柔らかい木、堅い木、においのある木。そして切ったばかりの木と、十分乾燥させた木とではまた違います。木の種類によってそろえる道具や、ノミのとぎ方なども微妙にかえたりするのですが、今回はそんな情報さえ全く入らず、なるようになれとばかりにスーツケースに道具を詰め、その重さでひーひー言いながら飛行場へと出かけました。 |
ローマ経由で4時間。OLBIA空港に降り立った私をシンポジウム担当部署であるCentro Culturale (図書館兼文化センター)の人が迎えにきてくれました。 夏のヨーロッパは夜10時頃まで明るいとは言え、徐々に暗くなってゆく道を車はどんどん山道に入ってゆきます。てっきり海沿いの町でシンポジウムがあると思っていた私は(きちんと水着も持ってゆきました)、とにかく連れてゆかれるがままです。 そうして空港から山を二つくらい越え60キロくらい内陸に入ったBUDDUSOというシンポジウムの開催の町に着きました。 |
|
BUDDUSOの町 |
ホテルの前を牛や羊が朝晩通る |
BUDDUSOは山あいにある小さな町で、そこの人たちはほとんど生まれた時から死ぬまでそこに住み、みんなが顔見知りと言う感じです。誰かとをすれ違う時は知らない人にでも必ずあいさつをするのが常で、(その時はBuongiorno, Buona seraなど)知っている人には Ciao! Marko, Ciao! Rita,........と車2台通る程のメインストリート300メートル位を歩いただけであいさつの洪水です。
Barにて
300メートル位の通りにはBAR(バール)が何件かあり、いつも誰かが店の中や外でEspresso、birra、vino、mirto(下記参照)を飲んで何時間でも楽しくおしゃべりをしています。
さて、私はほとんどイタリア語が話せなかったのですが、Centro Culturaleのスタッフのsignora(シニョーラ )が、とっても気を使ってくれて、イタリアにいるからにはイタリア語を憶えなさい!と色々と教えてくれました。また散歩に連れていってくれたり、家に連れていってくれたり,,,,そのおかげでイタリア語がずいぶんと分かるようになりました。
いつも素敵にしているsignora;
話すのが凄い早くて、素敵な人です。話すのを見ていると舌を噛むのではとヒヤヒヤしてしまいます。
また19才の娘さんもむちゃくちゃ美人でいつも私は見とれてしまいます。
他の作家の人も言っていたのですが、サルディーニャ島は美人が多いそうです。
ここSardegna島は過去にたくさんの国から侵略を受けてきた歴史があり、それとも関係が深い NURAGHE(ヌラーギ)と呼ばれる有史前の遺跡が島のあちこちに点在しています。
ここBuddusoにもいくつかあって、車で連れていってくれました。
天然の石を彫り込んだ墓(らしい)。
紀元前のもの(らしい)
ヌラーギの上に立つ図書館の館長さん。
向こうの山の上にもヌラーギは有ると言うNURAGHE(ヌラーギ)
有史前の住居跡ともいわれ、侵略戦争の時には砦ともなったという。Sardegnaで多くとれる 御影石を使って組上げてある。
|
|
最終日にBarでくつろぐ作家達 |
|
作家とCentro Culturaleのスタッフ。 |
|
|
|
|
|
|
Il vent della memoria per il futuro (記憶の風を未来に)
木の作品はずっと性にあわない気がして7年ぶりに作ったのですが、今回参加した事で自分の足りない部分や、また他の国の人たちのことなど色々な事が見えてきたり、感じられたりした気がします。
そしてこれから足りない部分を補う為にまた色々と試行錯誤して行こうと思ってます。
|
Simposioが終わって2日目の朝、ORIBIA空港に前述のSinograと娘さんが車で送ってくれました。 とても仲良くなっていた私達は別れの哀しみで言葉も少なかったのですが 空港に着いた時、 9月の町の祭りには絶対に来るのよ!と 再会を約束してビスをしあいました。 |
イタリア本土と違うと言う事でした。 もちろん、どこの国でも全て一緒だということはまず有りません。 そして、どこの国の人達もその違いに誇りと、自信と、愛着心を持っています。 日本人である私が、どこ迄自分の土地を知り、どこ迄愛しているか、 そんな事を考えさせられる旅でもありました。 |
訪問記に戻る | Up |
---|